お腹に新しい命を宿した時、まず考えるのは、「健康に産まれてきてほしい」であろう。
しかし、時としてその願いが叶わないこともある。誕生したわが子に障害があるとわかった時、人生の航海図はどうなるのか。

「ねぇ、この子だれ?」

仕事・妊娠・出産・仕事復帰。計画通りに進むはずだった。あの子が生まれるまでは・・・。

我が家には15歳と13歳の2人の娘がいる。最近、次女とアルバムを見る機会があった時のこと。彼女が自分が赤ちゃんの頃の写真をみて「ねぇ、この子だれ?どうしてどの写真もほっぺにテープが貼ってあるの?お鼻についているこれは何?」と聞いてきた。その子は次女自身。鼻に栄養チューブを入れて、胃まで直接ミルクを流し込む「哺乳」をしていた頃の写真だった。

今ではしっかり口からご飯を食べ、ふっくらとしている次女からは想像もつかない姿である。「え?どうして?いつから?痛いよね?」質問攻めにあう私。おもわず(私があなたを産んだ瞬間にもそれと全く同じことを思ったよ。)と心の中で呟く。 

多くの女性がお腹に新しい命を宿した時に一番に願うのは『健康に産まれてきてほしい』ということではないだろうか。
私もそう思っていた。まさか私が「障害のある子ども」を授かるなんて。

出産4日後の「ご出産おめでとうございます」

長女は帝王切開だったが、元気に生まれてきた。両親や親せきが次々にやってきて賑やかな入院生活を過ごした。退院してからも「赤ちゃんのお顔を見たいのだけど。」と言いながら沢山の友人が実家を訪ねてくれた。そんな記憶も残る2年後に次女が授かり出産を迎える。

しかし、今回の出産は私の想像するそれとは全く違う状況を迎えた。

出産後、数時間経って主治医の先生が「お母さん、赤ちゃんはお口の中が裂けて生まれました。残念ながら上手におっぱいやミルクを飲むことができません。このままだと大変な状況になるので、明日の朝から総合病院に入院します。NICU(新生児特定集中治療室)に入院して診て頂くことになります」と優しくゆっくり話を進めてくれた。 (この先生は何を言っているんだろう・・?)と思いながらも私は何が何だかわからないまま「はい・・」と言うだけだった。

 

赤ちゃんのいない個室。お祝いに尋ねてきてくれる人は両家の親のみ。「お疲れ様。よくがんばったね」と労いの言葉をかけてくれた。産んだのにまだ赤ちゃんを抱いてない。何してるんだろう、私・・・。涙も出ない。

数日後、次女の症状についての説明を受けに総合病院に足を運んだ。そこには先生方が数名おられた。その中の口腔外科の先生は私の顔を見るなり開口一番「お母さん、この度はご出産誠におめでとうございます。かわいらしい女の子が授かって本当に良かったですね」とにこにこしながら話かけてくれた。ここで一気に涙腺が崩壊した。(この子を産んで初めて「ご出産おめでとう」って言われたんだ、わたし・・。)出産後数日経つのに、周りから「おめでとう」と言われていないことに気が付いたのだった。

この先生には今でもお世話になっているが、後日「障がいのあるお子さんを出産すると、(周りから祝福されていない)と強く思われる方もいるのですよ。ですから必ず気持ちを込めてお祝いの言葉を申し上げています」と聞いた。

優しい気持ちが私の凍り付いた心を溶かしてくれていたことに気が付いた。

た、退職?

次女は4万人に一人の確率で生まれる「カブキメークアップ症候群」という先天性遺伝子の影響を受けた障がいだった。

その障がいの症状の一つに「哺乳障害」があったのだ。口内上顎が裂けていたので、ミルクを飲もうと思っても鼻に入ってしまい、ツーンと痛くなってしまう。なので全く飲まなくなってしまった。ミルクを上手に飲めないので鼻から細い管を胃まで入れて、そこから点滴の様にミルクを流し入れる作業が昼夜を問わず、3時間おきに行われた。退院後も鼻腔からの哺乳は続き、3か月、6か月と育休を消化しながら、「これは育児なのか看護なのか」という生活が始まった。

そしてこの生活が始まって9カ月過ぎた頃、職場から連絡が。「いつ仕事に復帰されるご予定ですか?」「娘がミルクの飲めない状態ですから、預け先が見つからなくて」「いつ飲めるかめどはついておられますか?」「いえ、お医者さんもわからなくて・・・」「そうですか、では、退職の手続きになりますけどよろしいですか?」「えっ?」・・・まるでドラマの様な展開で人生の航路が一気に変わってしまった。

予期せぬ「退職」。育休後にはしっかり働こうと考えていた私にはまさかの選択を余儀なくされた。

24時間子どもと向き合う生活

今まで普通にあるものと考えていた「私自身の仕事」が目の前から消えた。自分の意志とは関係なく。

目の前の子どもはかわいいし、大変な育児を誰かにお願いすることもできない。何もかもわかっているけれど、退職することで自分の人生の航海図がガラガラと音を立てて崩れていくことが耐えられなかった。そんなことを考える自分のことを「ワガママではないか」と責めたりもした。

「障がいがある子どもを預かってくれる保育施設はないんだ・・・。」と社会の中で孤立していく自分を強く感じ始めていた。周りの元気な子どもを育てている母親がまぶしすぎて直視することも難しくなっていた。哺乳の難しい次女を連れて町に出ることはかなりハードルが高く、長女の保育園の送り迎えもままならない。この生活で心身ともに負担がかかっているのは私だけではなかった。

甘えたい盛りなのに我慢の連続。次女のことで気持ちに余裕のない私は、長女がちょっと悪戯すると過剰に怒り、その後寝顔を見ては涙して後悔し反省する日々が続いた。長女は保育園でも自信ない様子。その姿も心配だった。

しかし、現実問題として長女に多くのエネルギーを注ぐことは難しい。毎日栄養チューブでの哺乳や、病気がちの次女の度重なる入院看護からは逃げられず、目の前のことをただひたすら行う毎日が続いていた。

研ぎ澄まされる感覚

あまりにもすさんだ生活を送っていることは田舎に住んでいたのでご近所にはすぐに知れ渡った。長女を保育園に送ることもままならない生活が続いたある日「娘さんのチャイルドシートを我が家の車に取り付けて、私の子どもを保育園に送るときに一緒に送ってあげる。」と言ってくださるご近所の方が現れた。毎日長女に怒鳴り続けていた私の生活も限界で、藁にもすがる様な思いの私は「ありがとうございます。」とすぐにお願いした。

今までの私であればグッと踏ん張って「大丈夫です。」と自分の力で何とかしようとしていた。いつのまにか涙を流しながら「お願いします。本当に助かります。」と頭を下げていた。気が付けばあちこちから夕飯のおかずが届いたり、外出もままならないことを知ったご近所の方が長女を連れてあちこち行ってくださったり。ありがたくてありがたくて「感謝の涙」がどんどん増えてきていた。悔しくて悲しくて辛い涙もたくさん流してきたけれど、何かが変わり始めていた。

「本当に心の優しい人」がすぐにわかるようになっていた。そんな方は私が心底困っているときに差し伸べてくださる援助のタイミングがずれることなく、そして助けてくれる言葉がけもぴったりの援助をしてくださる。私はその手助けを心底「ありがたい」と思えるようになり、そこに感謝の言葉を表さずにはいられなくなってきていた。悩み苦しんだ次女の出産後、ふたたび他者と円滑なコミュニケーションが取れるようになるまで、3年の月日が経っていた。 

できることは行い、できないことも肩ひじ張ることなく頭を下げ周りの方にお願いし、してくださったことに感謝する。そんな生活が始まると、不思議なもので自分の人生の航海図を少しずつ再構成できそうな気持ちになってきた。 今までの自分とは違う「器が広がってくる」感覚が感じられるようになってきた。

~続く~

過去の記事

おせっかい隊:中村 洋子(なかむら ようこ)

香蘭女子短期大学 准教授(保育学科 幼児体育)。ふくおか女性いきいき塾1期生。

大学教員職であったがハンディキャップ児を授かり退職を経験。看護生活で心身共に苦しかった頃の経験を活かし、沢山の頂いた援助を「恩送り」したいと考え、2006年《産前・産後・育児期の女性支援 すこやかライフサポーター》を設立。また、2012年には《発達障がい・多胎児・ハンディキャップのある子どもの育児を行う母親を支える プリズム 》を設立。2015年4月、12年ぶりに「常勤教員職」に復帰。現在は准教授となり、未来の保育従事者の育成に当たる。当事者の心に寄り添いながら人生の伴走をする「ママのガイドランナー」としても活動中!

◼︎すこやかライフサポーター